昭和の時代と僕+

昭和の時代。僕のまわりで起こった些細な出来事を手当たり次第に綴った。

味噌ラーメンと僕

 年の暮れになると僕の家では一家でトラックに乗りA市へ買い出しに出掛けた。
鮭や数の子・鮪・海老・酢だこ・蒲鉾・肉・お客様用菓子・ミカン・リンゴなど野菜以外の正月用の食材は、もちろん、日頃僕の町では買えない防寒着や新年用の下着や服、漫画本や正月に揚げる凧などワクワクしながら買いに出掛けた。当然、僕は前夜興奮して寝れず睡眠不足だったがA市に着くとワクワクが再燃した。僕は小学館の小学〇年生正月号を買ってもらった。色々な付録が沢山付いていた。男子用の輪ゴム鉄砲や女子用の着せ替え人形など半年は遊ぶことが出来た。
 何よりの楽しみは買い物の後で食べる食事だった。いつもは食堂の醤油ベースの中華そばが定番だったが、A市に味噌ラーメン専門店が出来初めて食べた味噌ラーメンは衝撃的で虜になった。挽肉と野菜を豪快に炒める姿や香ばしく漂う香りは食欲を大いにそそった。それ以来、買い出しの後は味噌ラーメンだった。野菜がふんだんに入ったラーメンは麺まで到達するまでに小学生の僕は時間が掛かり麺がのびてしまう。何回か通って食べる内に僕は学習した。

野菜をずらし先に麺を食べれば美味しく食べれると……。

節分と僕

 僕の小さい頃の節分は、じいちゃんが率先して行なった。豆を撒くのは男で歳男が優先された。当然、歳男になると僕にも豆まきの順番がきた。
 僕の家は農家だったので大豆も作っていた。母さんはいつも大豆を一升炒った。僕は一升桝持って誇らしく大きな声で「天打ち地打ち 鬼は外 福は内」と各部屋を周り隅々に大量に撒いた。便所にもまいた。撒いた豆は後で拾わないといけないので大変だった。兄ちゃんと姉ちゃんには手加減しろと怒られた。じいちゃんは悪いものが家から出るので窓を開けろと言っていた。外はマイナスの世界で部屋が一瞬にしてマイナスになった。風邪をひいてしまうのではないかと思った。

 豆は歳の数だけ食べろと言っていたがじいちゃんは二・三粒しか食べなかった。節分の夕食はいつも小豆粥と焼き鰯だった。僕はどれも苦手でガッカリした。でも、母さんが池田バンビのうぐいす豆をコッソリ子ども達のために買っておいてくれた。嬉しかった。美味しかった。豆菓子は大好きだった。母さんは残った豆を炒り直し砂糖をからめた豆を作ってくれた。池田バンビのうぐいす豆には敵わないけどそれはそれで美味しかった。

 小学生になると学校の図工で自作の鬼の面を作った。僕はそれを普段仲の良いチョン子に括り付け鬼代わりに豆をぶつけた。チョン子は堪ったものではないと逃げ回り僕に爪を立てて反撃して来た。いつも節分は騒々しかった。

冬自転車と僕

 僕の町は、冬はマイナス20度もなり路面は圧雪アイスバーンで非常に滑る状態だった。それでも冬に国鉄を利用する高校生を中心に自転車を乗る人は僅かにいた。中学生の僕もその一人でコソッと学校に乗って行った。夏タイヤは滑るので転倒し車が来てヒヤッとしたことが何度もあった。

 中学2年生の冬に、同級生のW君が学校へスパイクタイヤの自転車に乗って来た。もちろん先生には内緒だった。しかも手作りのスパイクタイヤだった。僕らは驚きと羨望の眼差しでW君を見た。W君は器用でしかも機械いじりが好きだった。まず夏タイヤにスパイクを打ち込むのだが、そのスパイクは解体したチェーンだった。大きさ的にタイヤの幅になりU型なので外れることはなかった。タイヤの内側には半分に切ったチューブを重ねパンクしないように工夫を凝らしていた。さすがW君だと思った。それが中学生の仲間に拡がり2人~3人くらいが作って乗っていた。しかし、スパイクタイヤの自転車は夏も乗るのでカタカタとうるさく閉口した。

 僕はスパイクタイヤを作るのが面倒だったので、昔ながらの細い縄をタイヤに巻いた自転車を乗っていた。これが簡単で割と滑らなかった。

ザリガニと僕

 僕が小学生頃、近所の子ども達とともに沢の奥に入りザリガニ捕りをした。ザリガニは冷たくきれいな水が流れている小さな川に生息していた。僕はどこにいるか大体わかった。他の子もそうだった。石をはぐるとハサミを上げ威嚇しているザリガニがいた。捕まえるタイミングを間違えるとハサミで指が挟まれることもあり泣く子もいた。ザリガニは沢山いてすぐにザリガニは小さいバケツに一杯になった。

 僕たちは家に戻りザリガニをきれいに洗った。大きなザリガニは殻が固いので外し、小さいザリガニはそのままにしてプライパンで炒めた。ザリガニは鮮やかな赤になり香ばしい匂いが辺りを漂った。醤油を垂らすとシンプルなザリガニ料理の出来上がりだ。ザリガニはきれいな水で育ったので泥臭くなく美味しかった。皆な満足で1匹残らず食べた。

 今、考えると当時捕って食べたザリガニは二ホンザリガニだった。二ホンザリガニは2000年に絶滅危惧Ⅱ類に指定されている。半世紀も前の話で食べてしまったものは仕方がないが、せめてもの救いは僕たちは子ザリガニや卵を持っているザリガニは川に戻したことである。小さい頃の夏の思い出である。

似顔絵と僕

 僕の小学生の頃の小さな自慢をひとつ。

 僕の町は田舎だったので、新聞は隣町の新聞屋さんが郵便局に頼み郵便配達員が配達してくれていた。地方紙の新聞でいつも昼過ぎに届いた。

 日曜日の新聞には少年少女日曜版があった。少年少女が描いた絵画や書道、マンガなどが毎週選ばれて掲載された。

 当時、チャールズ・ブロンソンは映画やコマーシャルで大人気だった。僕はハガキでチャールズ・ブロンソンの似顔絵を描いて応募した。似顔絵の作品は必ず「黒」で書いてくださいとの注意書きがあった。僕の家にはペンも黒インクもなかった。あるのは墨と筆だった。僕はカレンダーや包装紙の裏に筆で何度も練習したが上手くいかなかった。そこで僕は割り箸を削りペンの代わりにした。割り箸に墨を付けて描いた似顔絵は選ばれ少年少女日曜版に掲載された。僕は嬉しくて家族はもとより学校で先生や皆なに見せた。

 掲載された記念品は新聞社のロゴが入ったボールペンだった。僕は掲載された喜びでその日はしばらく寝ることが出来なかった。

母さんと僕

 我が町のどこの農家もそうだが、農閑期になると男達は出稼ぎに行った。父さんは山の飯場に泊まり込み木の伐採の仕事をしていた。母さんは隣町の製材所に手伝いに行っていた。僕の町は田舎でA市やF市から遠かったので買い物にはなかなか行けなかった。当然、僕たち子どもはお菓子を食べる機会が少なかった。

 そこで母さんは仕事が休みになるとたまにお菓子を作ってくれた。母さんが作るお菓子はかりんとうと羊羹で蒸しパンも作ってくれた。かりんとうは生地をのばし丁度良い大きさに切り、油で揚げて黒砂糖と水あめで作ったタレで絡めて乾燥させて完成だった。僕は完成品を待っていられず揚げたての生かりんとうを母さんに怒られながらも食べた。母さんはタレ付きのかりんとうを食べてもらいたかったのだと思う。揚げたての生かりんとうはそれはそれで美味しかった。羊羹は自家栽培の小豆から煮て餡を作り容器に流し入れ固めるのだが、寒天が足りなかったのか通常の羊羹よりは柔く水羊羹のようだった。

 母さんが作るお菓子は市販されているものよりも素朴だったがどれも美味しかった。

幼稚園と僕

 僕は小学校に入学する前の1年間、幼稚園に通った。両親が引っ込み思案の僕に心配したのか。ただ単に農作業が忙しかったのかわからないが、町の唯一の幼稚園というかお寺に通った。
 午前中のみでお寺には15~16人の子どもが通っていたと思う。小学1年で習うひらがなの読み書きぐらいはしていたと思うがまったく記憶にない。
 僕は砂場でブリキのオモチャで遊ぶのが好きだった。特に温かみのある丸くふっくらとした金魚が好きだった。船や乗り物、バケツやジョウロなどの砂場で遊ぶブリキのオモチャが沢山あったが僕は何故か金魚が好きだった。いつも時間が経つのを忘れ砂場で金魚で遊んでいた。

 そんな僕でも幼稚園で一番好きだったことは10時のおやつに大きめにキャラメル2個が貰えることだった。初めて食べた時はこんな美味しいものがあるかと思ったほどだ。

 僕はキャラメル2個貰えるだけの楽しみに、毎日中学生の兄ちゃんの自転車に乗ってお寺に通った。道路はまだ舗装がされておらず激しく揺れた。僕が乗る荷台には兄ちゃんの学生鞄があり、その上からずり落ちて道路に取り残されることもあった。兄ちゃんは気がつかずそのまま走り去った。