昭和の時代と僕+

昭和の時代。僕のまわりで起こった些細な出来事を手当たり次第に綴った。

幼稚園と僕

 僕は小学校に入学する前の1年間、幼稚園に通った。両親が引っ込み思案の僕に心配したのか。ただ単に農作業が忙しかったのかわからないが、町の唯一の幼稚園というかお寺に通った。
 午前中のみでお寺には15~16人の子どもが通っていたと思う。小学1年で習うひらがなの読み書きぐらいはしていたと思うがまったく記憶にない。
 僕は砂場でブリキのオモチャで遊ぶのが好きだった。特に温かみのある丸くふっくらとした金魚が好きだった。船や乗り物、バケツやジョウロなどの砂場で遊ぶブリキのオモチャが沢山あったが僕は何故か金魚が好きだった。いつも時間が経つのを忘れ砂場で金魚で遊んでいた。

 そんな僕でも幼稚園で一番好きだったことは10時のおやつに大きめにキャラメル2個が貰えることだった。初めて食べた時はこんな美味しいものがあるかと思ったほどだ。

 僕はキャラメル2個貰えるだけの楽しみに、毎日中学生の兄ちゃんの自転車に乗ってお寺に通った。道路はまだ舗装がされておらず激しく揺れた。僕が乗る荷台には兄ちゃんの学生鞄があり、その上からずり落ちて道路に取り残されることもあった。兄ちゃんは気がつかずそのまま走り去った。

鶏小屋と僕

 僕の家には小さいながらも鶏小屋があった。鶏は十羽くらいおり毎日新鮮な卵を産んでいた。産卵する場所は決まっておりリンゴ箱の中に毎日5~6個産んでいた。僕はいつも夕方に卵を取りに行くことになっていた。リンゴ箱には鶏が入る穴が開いており手を入れて卵を取ったが、たまに鶏が大事に卵を温めている時は手を入れると突かれることがあった。

 ある時、兄ちゃんが卵を取りに行った。「鶏小屋が何やら殺気立っていることに気がついたが、いつものようにリンゴ箱に手を入れると冷たいヌルっとした感触があり、慌ててリンゴ箱を持ち上げた。鶏ではなく蛇が卵を飲み込んでとぐろを巻いていた。」と家に青い顔をして駆け込んで来た。兄ちゃんは巳年生まれなので干支の蛇が好きそうだがそうではないらしい。

 僕が見に行くと蛇が卵を飲み込んで腹のあたりが膨らんでいた。どこからどこが腹かはわからないがたぶんそうだと思った。そのうち蛇はするすると鶏小屋から逃げて行った。

 母さんにいつも鶏小屋に入る時は静かに入りなさいと強く言われていたが、その事があって毎回リンゴ箱を蹴飛ばし持ち上げて蛇がいないことを確認し卵を取っていた。中にいた鶏はびっくりして飛び回っていた。僕が鶏小屋に入ると鶏はコケッコッコーと騒ぎ出し逃げ回っていた。

 結果的にリンゴ箱の中には卵は1~2個しか産まなくなり、他の場所に産んだ卵を探すのが大変になった。

スカイラインと僕

 僕が小学生の時、当時トップドライバー高橋国光さんの箱スカが50勝を達成依頼、箱スカは大人気になった。僕の町にもその人気の波は押し寄せ兄ちゃんも箱スカを乗っていた。部屋には藤圭子さんの新宿の女のポスターと一緒に高橋国光さんが運転するGTRのポスターが貼ってあった。兄ちゃんは桜井眞一郎さんが総監督をしている車だぞと自慢していた。僕は流れるようなスカイラインのボディラインが好きで絵を何度も描いていた。

 その後、ケンメリのCMで有名になったブルーのスカイラインに乗り換えた。ケンメリも僕の好きなボディラインを相続していた。丸いテールランプも印象的だった。

 

 因みに僕が最初に乗った車はキャッチコピー「40馬力のど根性」の5万円の中古軽自動車フェローMAXだった。

 

越冬野菜と僕

 僕の町は北国なので、冬の寒さが厳しく、雪が多かった。冬の間、農作業ができないので雪が降りはじめる秋に土の中に野菜を埋めて保存した。今は「雪下野菜」「雪中野菜」ともいわれるが僕の子どもの頃は周りにスーパーなどはなく北国地方の知恵としてどの農家も保存していた。
 僕は母と一緒に越冬する野菜「大根、人参、じゃがいも、キャベツ、白菜、ごぼう」を藁で囲い土を盛って冬に備えた。

 野菜が足りない頃に母親から野菜を取って来るように言われた。雪の多い年は一面真っ白で雪の凹凸が少なく、はたしてどこに埋めたかはっきりしないことが多かった。目印を立てたらいいのにといつも思ったが囲う頃にはいつも忘れた。雪を掘り返して食べた野菜は瑞々しく甘みが強く美味しかった。

 でも時期が外れると独独の土の匂いが野菜に染み付いた。僕は食べることが出来なかった。

雪像と僕

 僕の町は雪国だったので、小学1年生の時に小中学校全体で雪像を作った。雪像テーマはトッポジージョだった。当時、大きな耳・まんまるぽっぺ・つぶらな瞳の愛らしい顔のトッポジージョは大人気で田舎の我が町でも子どもから大人まで皆な虜になった。僕の家にもトッポジージョの人形があった。もちろんどの家にもトッポジージョの関連した物があったと思う。

 雪だるまは作ったことは何度もあったが、このような大きな雪像は初めてだった。僕たち低学年は雪像の周りから雪をバケツに入れ運んだ。雪像は中学生のお兄さんお姉さんと先生が中心になり放課後に作った。

 僕たち1年生は大きな雪像を見て凄いなと思った。その前で記念撮影をした。雪像の土台はしっかりしていたが、でも絵心ある生徒や先生がいなかったのか、残念ながら完成した雪像はトッポジージョならずネズミになってしまった。

スケートと僕

 僕が小学生の頃、親戚のおばさんから3人分のお下がりのスケート靴を貰った。兄ちゃんと姉ちゃんは大喜びですぐにスケートをやると言い出した。時期は丁度冬だった。しかし、困ったことに雪が1m以上降るので我が町には手作りのスキー場はあるがスケート場がなかった。
 兄ちゃんはスケート靴を貰った時から考えていたのかため池でやると言い出した。我が家は農家で当然ため池はあった。兄ちゃんと姉ちゃんと僕でため池の除雪をし手作りのリンクを造った。氷面は除雪の際の長靴跡でガタガタだったが、それでも滑ることは出来た。

 僕は毎日のように滑った。僕の足にはスケート靴が大きかった。スキーバンドでスケート靴を縛り固定させて滑った。初めてのスケートはもの珍しく何度も転んだが楽しかった。

でも除雪が大変だったのでその冬だけでため池スケートは終わった。
当然、スケートは上達しなかった。

子供相撲と僕

 夏が終わり秋になると我が町の神社で子供相撲大会があった。神社祭の奉納としての一環である。僕の家は神社までは学校よりも遠く小学3~4年生の時に初めて参加した。僕はもともと近所の子ども達との相撲遊びは好きだった。少しだけ強かったので参加すると病みつきになった。

 何よりも参加した者には賞金や賞品が出た。賞金は百円が基本で三人抜きになると五百円になった。負けた者にも鉛筆・消しゴム・ノート・雑記帳などの文房具が賞品として出た。参加する人数がそれ程多くなく何度でも手を挙げれば対戦出来た。同級生の女子も見に来ていたので下手な負け方は出来ず僕たちは俄然力が入った。ライバルはふたりいたが買ったり負けたりでその結果賞金は千円から二千円くらいになった。賞品も1年分くらいの文房具を貰った。中学生用の文房具も交じっていたので兄ちゃんと姉ちゃんにあげた。もちろん賞金は僕の大好きなお菓子を買った。

「貯金しといてね。」と残りは母さんに預けたがどうなったかはわからない。